ヨルシカ『盗作』に考える存在と哲学


ヨルシカ - 盗作(OFFICIAL VIDEO)

 

この『盗作』という楽曲(もとい、アルバムも全体的な価値観としてそれは含まれるだろう)は、「音を盗む」大泥棒というコンセプトの基に成り立つ。

 

俺は泥棒である。
往古来今、多様な泥棒が居るが、俺は奴等とは少し違う。
金を盗む訳では無い。骨董品宝石その他価値ある美術の類にも、とんと興味が無い。
俺は、音を盗む泥棒である。

それはメロディかもしれない。装飾音かもしれない。詩かもしれない。コード、リズムトラック、楽器の編成や音の嗜好なのかもしれない。また、何も盗んでいないのかもしれない。この音楽達からそれを見つけるのもいい。糾弾することも許される。
客観的な事実だけなら、現代の音楽作品は一つ残らず全てが盗作だ。意図的か非意図的かなど心持ちでしかない。メロディのパターンもコード進行も、とうの昔に出尽くしている。

それでも、作品の価値は他者からの評価に依存しない。盗んだ、盗んでないなどはただの情報でしかない。本当の価値はそこにない。ただ一聴して、一見して美しいと思った感覚だけが、君の人生にとっての、その作品の価値を決める。
「盗作品」が作品足り得ないなど、誰が決めたのだろう。
俺は泥棒である。

 (ミュージックビデオ、概要欄から引用)

 

このなかでも「客観的な事実だけなら、現代の音楽作品は一つ残らず全てが盗作だ。」

という観点に着目したい。

 

これは、音楽に限った話では、きっと無いのだと思う。メロディパターン、コード進行、言葉の遣い方、仕草、振る舞い、生き方そのものも、既に先人が何かの「型」、「パターン」を作って、我々現代人は、それに倣って、うまく組み合わせて、オリジナリティを演出しているのに過ぎないのである。

 

一方で、「それでも、作品の価値は他者からの評価に依存しない。(中略)ただ一聴して、一見して美しいと思った感覚だけが、君の人生にとっての、その作品の価値を決める。」のである。

 

意識的に生きていても、そうでなくても、我々は社会に晒され、五感から様々な情報、芸術を受け取る。それがオリジナルであるか、コピーであるかに関わらずに、ひとしく「好き」「嫌い」「普通」の感情が、神経伝達物質を通して伝わるのだ。

 

自分が生きていくなかでは、その作品の出どころよりも第一に、まずは自分がそれについて感じる「心の揺さぶり」について、もっと寄り添って、大切にしていきたい。

 

「誰が」やったのか、ではない。「私が」「どう」感じたのか、後者のほうが余程、私にとっては重要なのである。

 

広く人間の存在についても話を広げる。
「私は、たった1人のかけがえのないオリジナルの存在」

そんな、理想論なポエムは苦手だ。

自分が話す日本語は、先人が制定した「共通」語である。

「優しい人」なんてカテゴリは集めればごまんといる。

「自分の名前」も、案外同姓同名が多かったりする。

「所属組織」なんてステータスも、多くの人が同様に抱え、案外脆いステータスだ。

 

そこまで考えれば、自分の性格、アイデンティティ、価値観なんかは、親や尊敬している人といった先人の考えをコピーして、それを複数人コピーして、少しだけうまく自分らしく体裁を整えて「オリジナル」を作っているに過ぎないのである、そう考えると、自らの存在意義なんて、脆すぎるもので、自分が盗作、コピーコンテンツであることを認めないのは、あまりにも不合理だと言える。

 

座右の銘』なんて、その典型例だと思っている。個人的には。それ自体を否定することはないが。

 

だから、ここから主張したいことを述べると、
「みずからをコピーコンテンツだと一方では認識する」生き方が重要だと思う。

 

コピペが減点されたり、パクツイが蔑まれる世界であることは事実だが。

 

ただ、それをしっかりと認識したうえで、
「では、私はどうしたいのか」「どう感じたのか、どうすれば気持ちがいいのか」

そのことについて、もっと寄り添っていたい。

 

それくらい、自己というのは脆くて、ありふれたものだと思うから。

 

音を聞くことは気持ちが良い。
聞くだけなら努力もいらない。

前置きはいいから話そう。
ある時、思い付いたんだ。
この歌が僕の物になれば、この穴は埋まるだろうか。

 (歌詞より引用)

 

「聞くだけなら努力もいらない。」
私を含めた、多くの人間にとって芸術の立場は、「消費者」に過ぎない。消費すること、それを批評すること、馬鹿にすること、それには努力は要らないのである。

 

一方で、芸術の「生産者」は、その価値を生み出す立場にある。自分で頭に描いているものを、そのまま音楽や絵、写真、画像、文章……。これらの媒体に、100%理想的な形で落とし込むことは、難しい。「消費者」のなかには、「生産者」に一度は憧れ、その過程で自らの「才能」だとか、「センス」に絶望した者もいる。

どれだけ、才能を持ち合わせていても、なぜか日の目を見ない者もいる。そんな、アンバランスで、不確実な評価、露出、能力軸に存在するもの、それが「芸術」なのだろう、そう私は認識している。

 

自らの才能に絶望した者、日の目を見ない者、彼らが「盗む」ことで、自らが抱える穴は埋まるのだろうか。

 

 

 

例えば、音楽に限らないアーティストが評価される軸に、「私のアイデンティティを代弁してくれる」というものがあったとしよう。

そう評価する「消費者」は、その努力の有無はさておき、自ら能動的にそのアイデンティティを表出化しなかった者、なのである。

 

この資本主義経済において、その活動を「経済価値」で考えるとするならば、

消費者も等しく、そのアイデンティティを代弁し、自らがアーティスト「生産者」となり得たのである。何度も言うが、それを目指す、目指さないを問わず。

 

そして、それを表現しようにも出来なかった者、その絶望、そして「生産者」への嫉妬。さまざまな感情が混ざり合うなかで、作品というものは広く評価されゆくのだろう。